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2011年04月09日

丹後田辺城(西舞鶴)

丹後田辺城(西舞鶴)

史跡・田辺城跡(舞鶴公園)・復元城門

用があって舞鶴に行った。ついでに見学もした。

西舞鶴駅近くに 舞鶴公園があった。ここは田辺城のあった所、復元門(と言っても当時のままではない)があった。
田辺城は 細川幽斎の城として知られている。

安土・桃山時代、丹後の国は 細川幽斎(藤孝)・忠興親子の領国となった。
これ以降田辺城は 細川・京極・牧野氏の居城として290年続いたが、明治6年廃城されて、舞鶴公園になっている。


丹後田辺城(西舞鶴)

彰古館



丹後田辺城(西舞鶴)

田辺城資料館・細川幽斎の像

細川幽斎を中心とした資料が 色々おかれていた。
中で 色々説明を聞いた。

細川藤孝の息子忠興は 明智光秀の息女である玉(ガラシャ)が正妻であった。本能寺の変で 明智光秀が織田信長を襲って自刃させてから 藤孝の立場が微妙になる。
光秀は 藤孝父子に援軍を期待したが 藤孝は断った。そして忠興は 玉を離縁・幽閉という形で山奥にかくまった。

その後 玉は 秀吉に許されて 細川家に戻った。関ヶ原の合戦の時には 人質になるのを死を持って拒んだという悲しい生涯を テレビの歴史ドラマで何度か観た。

関ヶ原の合戦の時、細川幽斎が500人の兵で田辺城に籠城し、石田三成方に攻められたが、幽斎が『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者の第一人者であった為、後陽成天皇の勅令で城の包囲が解かれ 田辺城は明治維新まで続いたらしい。
幽斎は和歌・音曲・茶道にも通じた文化人であったようだ。

その後細川家は九州に移ったが、この田舎町の舞鶴・田辺城と 日本の歴史のつながりを想像しながら 説明を聞いた。

丹後田辺城(西舞鶴)




Posted by モッチ  at 14:36 │Comments(0)

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