2025年04月19日
「戦後80年・戦争孤児」の新聞記事
新聞に 戦争孤児の記事が4回にわたって連載された。
1回目は埼玉県に住む87歳の女性の話。1945年3月10日の東京大空襲で 家を焼かれ親を亡くした。終戦間もない7歳の頃、4歳の弟と上野駅の地下道で暮らした。飢えで亡くなる大人や子どもは沢山いた。そのままでは死んでしまうので 命を繋ぐ為に残飯をあさり、弁当を盗んだ。残飯でおなかも壊した。物乞いもした。
朝起きたら 隣で寝ていたおばちゃんが死んでいた。こんな光景を見ても何とも思わなくなった。上野駅の地下道はそういう所だった。
沢山の孤児が上野駅の地下道や駅周辺で暮らしていたが、国からの援助はなかった。
その後 色々な事を経験して 何とか生き延びる事が出来た・・・・。
夫は その記事を読んで、戦後 舞鶴にいた引き揚げ孤児と重なったそうだ。
1回目は埼玉県に住む87歳の女性の話。1945年3月10日の東京大空襲で 家を焼かれ親を亡くした。終戦間もない7歳の頃、4歳の弟と上野駅の地下道で暮らした。飢えで亡くなる大人や子どもは沢山いた。そのままでは死んでしまうので 命を繋ぐ為に残飯をあさり、弁当を盗んだ。残飯でおなかも壊した。物乞いもした。
朝起きたら 隣で寝ていたおばちゃんが死んでいた。こんな光景を見ても何とも思わなくなった。上野駅の地下道はそういう所だった。
沢山の孤児が上野駅の地下道や駅周辺で暮らしていたが、国からの援助はなかった。
その後 色々な事を経験して 何とか生き延びる事が出来た・・・・。
夫は その記事を読んで、戦後 舞鶴にいた引き揚げ孤児と重なったそうだ。