夫は 戦争孤児の新聞記事を読んで、自分の子どもの頃の事を思い出している。
舞鶴に住んでいた頃、戦後の引き揚げで舞鶴港に沢山の人が帰って来た。(私は 興安丸という引き揚げ船の名前だけは ラジオで聞いたことがあった)
小学校に 引き揚げてきた孤児が来ていた。
引き揚げの途中で親と死別して 孤児になって 舞鶴に上陸した。
行政が何もしないので 舞鶴の神社が 敷地内にバラックを建てて、そこに戦争孤児達を住まわせた。
一応 寝る所は出来たが、食べ物に不自由していて、いつもおなかをすかせていた。
お弁当は勿論持っていなかったので、孤児はクラスメイトのお弁当を勝手に食べていたという。体育の時は盗まれないように 自分のお弁当を身に着けて体育をした。
今から考えたら、「あの時 弁当を半分でもあげたら良かった・・・」とずっと思っていたらしい。
あの時は 自分も大人数の兄弟姉妹で 食べ物を食べていなかったので おなかはすいていた。他人の事など考える余裕がなかった。「それでもあげたら良かった・・・」 と今は思う。
小学校卒業時に孤児はどこに行ったか分からない。
「今どこにいるかなあ・・?何して居るかなあ・・・?」と毎年言う。
戦後の大変な時代の強烈な思い出が 今でも蘇ってくるらしい。